D-Dad
ディーダッドは、今私に一番近いガイドです。
この世を離れてから、私を守ってくれています。

ディーダッドは、私の前夫の父です。名前は、ロイド・レスター・ブラウン。孫たちが皆この愛すべきおじいちゃんを「ディーダッド」と呼んでいたので、私もそう呼びはじめました。彼は2001年5月14日に亡くなりました。私は前夫と1991年に結婚したので、ディーダッドとはほぼ10年間家族だったことになります。

ディーダッドは、海軍の司令官でした。退役後、歴史の教授として大学で教えていました。私が結婚したときには、ディーダッドはすでに教職からも退いていて、南カリフォルニアのリバーサイドという市にある退役軍人のためのコミュニティーに、妻のルシールと住んでいました。私は夫とたまに義父母を訪れたり、祝日には家に呼んだりしていました。

ディーダッドは言葉の少ない人でしたが、話す時にはその言葉には洞察力とユーモアが混ざっていました。彼はまた、主義と高潔の人でもありました。静かな日本の音楽を好み、詩や、ものを書くことを楽しみとしていました。朝鮮戦争のときにには、ルシール、息子のダグラス、娘のキャロルという家族全員で日本に何年か住んでいました。そのときに日本の音楽が好きになったのかもしれません。

私とディーダッドの特別で不思議な関係はしかし、彼が体力的にかなり弱ってきた時にはじまったのです。その頃私はすでに離婚してラスベガスに住んでいましたが、前夫とは良い友人なのでディーダッドが病気でかなり弱ってきた、と聞いたのです。ですからロスアンジェルスに用事があったある日、お見舞いに、と、ディーダッドの住んでいるところに付随してあるケアが必要な人たちの病棟に寄ったのです。そこに近づいたとき、入り口に救急車が停まっているのが見えました。ディーダッドじゃないといいな、と思いながら車を降りて入り口に向かったときに、救急隊員がディーダッドを乗せた担架を押しながら出てきたのです。そのすぐ後ろにはルシールがついていました。私はすぐに自分が誰かを告げ、ルシールに「病院までついていくから」と言って、車にもどったのでした。

病院ではディーダッドの入院手続きの手伝いをし、ダグラスとキャロルに電話をかけ、事情を話しました。ディーダッドの病室が決まり、ひとまず落ち着いたときに私は病室でディーダッドとふたりきりになったときがありました。ベッドのそばに寄った私に、ディーダッドは、「私のことを覚えていてくれてありがとう」と言ったのでした。そんなことを言われるとは思いもよらなかった私は、何か気の利いたことを言い返したかったのですが、「そんなばかなことを言わないでよ。ディーダッドことを忘れるひとなんかいないわ」とばかな返答をしたのでした。

それから後はいつ何が起きたのかはよく覚えていないのです。キャロルがモンタナ州の自宅から病院に着くまでルシールのそばにいたような気もするし、またその後ディーダッドがどれくらい生きていたのかもよく覚えていません。ある日病院にいたダグラスから電話があり、ディーダッドが危ない、というので、すぐに会いにいきました。集中治療室に入っていたディーダッドのそばには、愛する妻と子供達がついていました。孫もすでに何人か会いに来ていて、これから来る孫もいました。

その夜は、ロスの友人のところに泊まりました。翌日そこを出て車のドアを開けたところ、運転席の床に小さな紙が落ちているのに気づきました。拾い上げると、それはディーダッドのアドレスが書いてあるステッカーでした。なんでこんなものが車の中に落ちているのか、と不思議に思いました。ディーダッドのいた集中治療室には個人的なものはなにも置いていなかったし、しかももっと不思議に思ったのは、そのステッカーにディーダッドの名前しかなかったことでした。それまで私達がディーダッド達からカードをもらう度に貼ってあったアドレスステッカーには、夫婦2人の名前が書いてあったからです。このステッカーには、「退役海軍司令官 ロイド・L・ブラウン」としかありませんでした。その翌日ダグラスから電話があり、ディーダッドが亡くなったということを知らされました。そのときに、ああ、ディーダッドはあのステッカーを置くことで私にさようならを言っていたのだ、と分ったのでした。

確かにそれは、さようならでした。しかし、それはまた新たな関係のはじまりでもあったのです。彼は私の義父というだけでなく、そのときから私のスピリットガイドになってくれたのですから。

ディーダッドの死から数年後、不思議なことがありました。私はそのときにやっていたコンベンションの仕事のために、簡単なビデオの編集をするためにロスにいくことになりました。その日は金曜日で、クライアントが月曜日にラスベガス入りすることになっていたので、さっ、と編集を終わらせて帰って来なければ、と朝の5時にラスベガスを車ででたのでした。ロスのバーバンクにある友人の編集所で10時から編集をはじめることができ、作業もスムーズに進んで予定通りに日帰りできる、と思っていたところが、最後のDVDをプリントする段階になったところで、まるで何もまともに動かなくなってしまったのです。いろいろなフォーマットでDVDをプリントしても、どのフォーマットも再生できないのです。編集者は、その理由をつきとめようと必死でしたが、何をやっても矢張りうまくいきません。そうこうしているうちに夜の11時をまわってしまい、「今日は私は泊まることにするから、明日また続けましょう」、とその夜は解散しました。私はホテルをとり、クライアントが来るまでに終わらせることができるかしら、などと思いながら寝たのでした。

翌日、すべての編集過程をチェックし、何もおかしなところがなかったので、DVDをプリントしてみました。すると、どうでしょう、全く何事もなかったかのように、プリントしたDVDはちゃんと再生できたのです。前夜には再生できなかったフォーマットでプリントしたものが、その朝には問題なくプレイできたのです。どうしてだか、全く理由はわかりませんでしたが、ひとまずほっとして、また全てをチェックして仕事を終えたのは午後になっていました。昼食をとり、おしゃべりしてロスを出たのは3時になっていました。

それは丁度カリフォルニアとネバダの州境にさしかかろうとする時でした。フリーウェイの追い越し車線で運転していた私は、急にハンドルが右にとられたので、パンクした、と思い、すぐに車線変更をして、安全に車を止められるところを探しました。しかしすぐに右前のタイアから煙が出たので、しまった、タイアが破裂しちゃったわ、と急ブレーキをかけて、路肩に止めました。外に出てタイアをチェックしましたが、もう暗くなっていたのでよく見えませんでした。AAAという道路サービスに電話して牽引トラックを待つことにしました。

1時間も待ったでしょうか。やっとトラックが来てくれました。スペアは車の下についているはずだから、と言ったら、「スペアがあってもどうにもできないよ」というのです。「だって、ハブからタイアがなくなっちゃってるから」どういうことだろう、とわからないでいたら、「君がこうして生きているのが不思議なくらいだ」と続けるのです。その時に運転していたフォードのエクスプローラーは、何かあると横転する、とよく言われていました。時速80マイルで走行していてタイアがとれてしまったのだから、横転しなかったのが奇跡だよ、と彼は言ったのです。

それから数ヶ月この出来事はいったい何だったのだろう、と考え続けました。そして私の霊感の強い友人といろいろと話し合い、やっと探り当てたのです。その出来事をコントロールしていたのは、ディーダッドでした。タイアがとれてしまう、というのは避けられないことでした。しかし、編集を遅らせることにより、その事故がロスからべガスへの金曜日の混雑したフリーウェイで起こることを避けることができたのです。

その後もディーダッドは、私が直面した様々な困難を摩擦なくスムーズにくぐれるように助けてくれました。彼はいまでも私がちゃんと守られているように、と見ていてくれます。毎朝私は短い瞑想をして、その中でディーダッドからメッセージを受け取ります。ディーダッドはいつも私がその時に聞く必要のある明確で正確なメッセージをくれています。

2007年5月6日、朝の瞑想でディーダッドは、「これからしばらくの間、もっとパワーのあるガイドが私に取って代わる。あなたはそのガイドから学ぶ必要があるからだ」と言ってきました。そして翌5月7日、マジャイが変わりに現れ、朝のメッセージをくれるようになりました。

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